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【toiro】「違うこと」は「間違っていること」ではない ~出会いが支えてくれた25年間・その2~

大阪・京都あたりもそろそろ紅葉の季節を迎えますが、寒暖差が激しく洋服選びに悩む毎日です。私が学生の頃は、”10月からは冬制服に一斉に衣替え”と決められていましたが、今は個人差や気温に柔軟に対応できるよう、夏服・冬服のどちらを選んでもよいという移行期間が、学校ごとに設けられているようです。まさに多様性の時代ですね。

今回は出会いシリーズの二回目、23年前ADHD指導者養成講座で印象に残った貴重なお話から、一つご紹介したいと思います。

 

さて突然ですが、皆さんは日本語の「違う」という言葉を、日常どんな意味で使っておられますか? おそらく多くの方は、二通りの意味が浮かんできたのではないでしょうか。

●パターン①
AとBを比べてみて、同じではない状態にあることを意味する場合。
例) 「日本と欧米では生活習慣が違う」 

●パターン②
基準となる正しいものと一致しない状態。まちがっているという意味の場合。
例) 「『もしもし、田中さんですか?』 『いいえ、違います』」

 

では次に、これを英語に当てはめてみるとどうなるかを考えてみます。

パターン①の意味だと、「different」(異なった、違った)があてはまりますね。しかし、パターン②の意味だと「wrong」(間違った、正しくない)がふさわしいでしょう。英語では「違う」と「間違っている」という言葉は語源も含め、全く関連性がないそうです。では、なぜ日本語では同じ言葉として使われているのでしょうか?

講師の方は、島国である日本の国民性が影響していると話されていました。日本人の民族性の一つとして、よく言われるのが「集団主義」。昭和世代の私なんかは、小さい頃から集団主義教育を受けてきましたから、学校ではみんな一緒に、みんなと同じようにするのがあたりまえだと思っていました。これも講師の方が話されていたのですが、アメリカの先生方が日本の小学生の授業を視察に来られた時に、子どもたちが国語の教科書を皆で一斉に音読するのを見てびっくりされたそうです。アメリカのように多文化共生社会で個人主義の国では一人ひとり違うのが当たり前なので、クラスの皆が、同じスピードで、お互いに声を合わせて読んでいる姿に驚かれたのでしょう。

 

令和の時代になり、少しずつ日本でもダイバーシティ(多様性)に注目が集まるようになってきたものの、まだまだ日本には、周りの人たちの状況やその場の雰囲気に自分の行動を合わせていくという風土のようなものが、色濃く残っているように感じます。

集団主義にも個人主義にもそれぞれのメリット、デメリットはあるとは思いますが、少なくとも自閉症の人などの少数派にとっては、多数派の人たちと同じであることを求められるような社会は、生きづらいであろうことは容易に想像できます。そう頭ではわかってはいるのですが、ついつい「なんで、みんなと同じようにできないの?」と親は考えてしまいがちですね。親も葛藤しているのです、現実と自分の価値観との間で。

 

「人と違うということは、間違っていることではない。」という話、考えてみれば当たり前のことなのですが、当時、子育てに必死だった私の心には、とても新鮮に響いたのでした。

貴重なお話はまだまだ続きます。続きは、次回のコラムで…

 

 

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コラムtoiroは、発達障がいやコミュニケーションに苦手さを感じているご本人、学生さん、お子さんを応援するコラム。名前は、十人十色からつけました。
読者の方にとって、少しでも役に立つヒントになればうれしく思っています。
不定期ですが、ちょっとずつ更新していきます。

この記事を書いた人
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発達障がいのある二人の成人の母+就労支援事業所の支援員。
2人を育てた経験を活かし、自閉症スペクトラム支援士、ペアレント・メンターとしても活躍中。
最近は、ドラマを見ながら眠ってしまって結末が見れない母のために、それを見越して、そっと録画予約をしておいてくれる優しい息子と娘に感謝する毎日です。